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オランダ暮らしブログ

アムステルダムで暮らしています。こちらでの生活のことなど。

出島オランダ商館長といえばこのお方

ヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff 1777年12月2日 - 1835年10月19日)
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1803年〜1817年の間、出島にて最も長く勤めたオランダ商館長(カピタン)。
1800年、書記官として日本に赴任したので、17年もの間日本に滞在していましたが、これにはフランス、ナポレオンによりオランダが占領されてしまったという深〜い事情があるのです。

フランス革命戦争とナポレオン戦争でヨーロッパの国々が影響を受けていた時代です。

1793年、フランスによりネーデルラント連邦共和国が倒されてから、オランダは混乱の時期を迎えます。
1810年にオランダはフランスに完全に併合され、オランダという国が消滅!
そして、オランダにかわってイギリスが東洋の植民地を手中に納めていきます。
1811年にはオランダ東インド会社の東洋拠点インドネシアのバタヴィアがイギリスに占領され、世界でオランダの旗が翻っていたのは日本の出島とアフリカ西海岸のエルミナ要塞のみとなりました。

国がなくなってしまったため、当然オランダからの船も途絶えてしまい、出島のオランダ人商館員達の生活物資ももちろん届かなくなり生活が困窮して行きます。
食料品などは幕府から無償で援助があり、長崎会所に支払いの立て替えをしてもらったり、ドゥーフの所蔵する本などを幕府や長崎奉行に買い取るなどしてもらい苦境を切り抜けていたそうです。
そして、中立国であるアメリカの船を雇い、細々となんとか貿易を続けられるようにもしていました。

また、ドゥーフの滞在中は様々な事件が起こっています。
有名なのはフェートン号事件(1808年)。
イギリスの軍事力や世界の情勢、そして日本の軍事力を知っていたドゥーフは、イギリスと戦争になる事だけは避けなければと考え、フェートン号を焼き払う気でいた日本側を説得して、穏便にフェートン号を離日させる方向でこの事件を解決に持っていったということです。

またオランダが消滅した数年後の1813年に、イギリスの船がオランダ商館をのっとりにやって来ます。オランダに取って代わって日本との貿易を目論んでいたわけですが、そのときも巧みな交渉術で相手を送り返し、断固としてオランダ商館を守ったそうです。
その時にイギリスの船に乗ってやって来たのは、驚いた事にかつてオランダ商館長を勤めたワルデナールでした。
ドゥーフが最初に日本に赴任したのは、このワルデナールの書記官としてだったのです。
元上司だったんですね〜。

この男、すごい裏切り者かと思いましたが、この頃、オランダ総督ヴィレム5世の一家はイギリスに亡命していたし、このワルデナールもオランダ消滅後の再就職でイギリスに雇われたとしても不思議ではありません。国がなくなってしまったわけなので、しょうがないといえばしょうがないか---。

たぶん、甘い言葉でイギリス組に入る事を進められたのではないかと想像しますが、
ドゥーフは、祖国オランダの復活を信じて、出島の商館を守りぬいたのだと思います。
絶対にオランダ国旗を下げぬまいと---、

すてき〜,ドゥーフ〜♡

きっと、イギリスには散々な目にあわされていたので、イギリスのために働くなんてオプション外だったのかもしれません、
また、ドゥーフは日本語も堪能、日本人との間にできた子供もいて、幕府や長崎奉行の信頼も厚かったそうなので、いざとなったら日本に住み続ける覚悟だったのではないかな、と思ってしまいます。(ここらへんは私の想像。)

この他にもロシアの船が日本にやってきたり、商館員がアル中(日本酒)で死亡したり、商館が火事で焼けてしまったりといろいろな事件が起きた中、蘭和辞典の編纂にも力を注ぎ、日本の蘭学へ大きな貢献を果たしています。フランス語も教えていたそうです。
またオランダからビールが届かなくなったため、日本で初めてビールの醸造をしたりしてます。
どーしても飲みたかったんですね、ビール。

1815年、オランダはネーデルラント連合王国として独立し主権を回復することができたため、新任の商館長が日本に赴任し、1817年にドゥーフもオランダに帰国することができました。
そして、故国の名誉を守ったことで国王から最高勲章「オランダ獅子士勲章」を賜ったそうです。
日本側も祖国を失いながら祖国の矜恃を保ち続け、オランダ人としての誇りを失わずに異国で生きていたドゥーフに敬意を抱き賞賛していたと言われています。

ドゥーフが帰国するにあたり一番の心残りは、丸山遊女の瓜生野(うりゅうの)との間にできた最愛の息子、丈吉。(1808年生まれ)
混血児のためいろいろな差別や偏見にあうのではないかと心を痛め、オランダに一緒に帰国したいと申し入れましたが、この時代では許されないことでした。
ドゥーフは残していかねばならない丈吉の先行きを案じ、長崎奉行書に懇願書を提出します。
ドゥーフの子を思う深い気持ちが伝わり、丈吉を役人として採用して頂きたいという願いは聞き届けられます。
長崎奉行、遠山左衛門尉景晋(遠山の金さんのお父上)の異例の計らいにより、15才で唐物目利に取り立てられたそうです。
また混血児として扱われないために、役人の仕事もオランダと関係のないものにして欲しいとか、丈吉に与えられた名字「道富」を「ドウフ」ではなく日本風の「ミチトミ」と読んで欲しいなどと希望していました。
自分が外国人として出島で制限された生活をしていたので、丈吉には日本人として自由に生活して欲しいという切実な思いだったのでしょう。
そして、生活に困らない様にお金を残し、さらに毎年収入があるように手配もしてドゥーフは日本を後にします。
もう2度と会えない別れ---、思わず目頭が熱くなりました。

悲しい事に丈吉は17才という若さで病気で亡くなります。
その数日後ドゥーフから丈吉の安否を尋ねる手紙が届き、手紙を受け取った人達の悲しみはいっそう深くなったそうですが、このタイミングの良さはやはり虫の知らせだったのでしょうか。

丈吉、そしてお母さんのお墓には院号のついた立派な戒名が付けられているそうです。
この時代院号付きの戒名が付けられるとは、差別どころか非常に大切に思われていた証しだと思います。そしてドゥーフが日本の人々に心から敬われていたということが伝わってきます。

「稲妻のその手借りたし草枕」
ドゥーフが京都祇園の二軒茶屋で豆腐を切る女中の腕に心を奪われて詠んだ句。
(うまい! 座布団10枚ものです。)

いろいろな事が起こった長い日本滞在、日本人とも絆を深め良い思い出であった事を願いたいです。

いろいろネットリサーチをしてまとめてみました。
長崎にはいろいろな資料があるようなので、日本に里帰りの際にはぜひ寄ってみたいと意気込んでおりますっ。いつになるかわかりませんが。
ドゥーフのご子孫は日蘭関係の催し物で来日されたこともあるそうですが、もしオランダで遭遇したら私の熱い思いを伝えたいわぁ〜、
怪しい日本人と思われるかしら?
by gateroof | 2009-11-22 08:01 | イベント | Comments(0)

by gateroof
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