先祖の地を訪ねる、関宿
2013年 07月 27日
関東平野の中心近くにあります。
今まで一度も訪れた事はありませんでしたが、今回はうちのオランダ人スペシャルということで、叔母さんが連れて行ってくれました。
最近地図を見るまで知らなかったのですが、関宿のある野田市は埼玉と茨城に挟まれた細長い部分にあり、こんな所が千葉だったのかとびっくり。
千葉県野田市関宿にある関宿城博物館。
天守閣(「御三階櫓」と呼ばれる天守状の代用櫓)部分は古い記録に基づいて再現し、
1995年に開館。
お天気がいいと富士山とお城のコンビネーションで絵になる風景を見る事ができるそうです。(下の画像はWikipediaより、この角度だとかっこいいですね)
関宿城博物館は、千葉県の最北端、利根川と江戸川の分流点のスーパー堤防上にあり、城跡には建ってません。
明治時代になると関宿城は廃城となり取り壊され、そして城跡のあった場所は河川改修や圃場整備が行われたために、城跡への建築が不可能だったそうです。
かつての関宿城は川に囲まれた場所にあり、川は自然の外濠の役目をする反面、洪水などの水害をもたらします。
「坂東太郎」の異名を持つ暴れ川、利根川には相当悩まされていたようで、
この博物館では治水や河川改修、河川にかかわる産業などがメインテーマの1つとなってます。
治水と言えばオランダのお家芸ですが、ここでの治水、河川改修に携わったのもムルデル(Mulder)などのオランダ人技師達でした。いわゆる「お雇い外国人」ですね。
思わぬ所でオランダ人の名前が出て来て、うちのオランダ人ともなにげ接点があって良かったです。
関宿藩は利根川と江戸川の分岐点にあったため利根川水運の中継地として栄え、江戸幕府にとっての重要拠点でした。
そして城下町として栄えていたそうですが、現在この辺りにはそのような面影ぜ〜んぜん無し!
4階の展望室から見渡すと、田んぼや畑の静か~なカントリーサイドが広がるのみ。
江戸時代を彷彿させるように賑わっている川越とはえらい違いです。
博物館の2階は関宿藩や関宿に関する展示があり、
関宿藩士、杉山対軒の肖像画(のコピー)。
肖像画の存在は以前から知ってましたが、この博物館で見た時はちょっと驚きました。
小さい博物館ですが、このような所に顔出しさせて頂ける人だったのかと。
親戚がごり押しして博物館に展示してもらったのかとちらりと思いましたが(笑)、
まあ人に認められる仕事をしたのは確かなようです。
いろいろ検索してみたところ、杉山対軒の事をネット上で書いている子孫は見当たらず、私が話題にしなければ誰も話題にしないように思いますので、ここで杉山対軒にスポットライトをあてさせて頂きたいと思います。
といっても私自身は詳しい事は知らないので、ネットで分かる範囲で、杉山対軒に関する話と歴史的背景を調べてまとめてみました。もし親戚筋から新しいネタが出てきたら、随時追記させて頂きます。また記述に間違いがありましたら教えて頂けるとうれしいです。
久世氏の家臣であった杉山氏は、代々関宿藩の家老職を務め、
杉山対軒は、安政6年(1859年ー29才頃でしょうか)に家老に就任し、
関宿藩21代藩主の久世広周、22代藩主の久世広文、23代藩主の久世広業に仕える。
関宿藩主の久世広周は幕府の老中を務めてましたが、
大老であった井伊直弼の「安政の大獄(1858~1859)」に反対したため井伊直弼の怒りを買い、老中を罷免させられる。
井伊直弼が「桜田門外の変(1860年)」で暗殺されると、久世広周は老中職に復活、
安藤信正と共に幕政を事実上取り仕切る最高権力者となり、公武合体政策を推進。
「坂下門外の変(1862年)」により再度老中を罷免させられ失脚。
蟄居謹慎処分となり、家督を息子の広文に譲る。
この広周の失脚により、杉山対軒も一時家老職から退いたようですが、数年後に家老に再就任したそうです。
1864年、広周は失脚の2年後に死去、その後関宿藩は幕末の動乱の中、幼い藩主(広文、10代前半)のもとに統制を欠き、勤王・佐幕の二派に分かれて論争が激化。
勤王派の中心人物だった杉山対軒は、関宿藩を戦火にさらさないために藩論を勤王、新政府への恭順にまとめようと尽力。
しかし、佐幕派は関宿から脱走し、年若い藩主を連れ出し彰義隊に合流、
上野戦争(1868年)で戦うなどして関宿藩は大混乱(久世 騒動)。
この事態の収拾にあたった杉山対軒は、上野戦争で敗れ佐倉に逃れていた藩主広文を関宿に戻し、また新政府に嘆願した事により、広文に対する処分が寛大なものとなる。
強制隠居処分となった広文に代わり藩主になったのは弟の広業。
広文には子供が無く、広業は広文の養子となって1868年12月14日、10才で家督を継ぐ。
杉山対軒は広周の死後に幼くして藩主となった兄弟に仕え、関宿藩の混乱をまとめる事に力を尽くしますが、
明治二年(1869)4月20日、
新政府の取り調べを受けた後、駕籠で江戸藩邸を出た対軒は、同じ関宿藩の反対派(井口小十郎と冨山匡之助)により、並塚村の庄内古川近くで暗殺され、39才にして無残な最期を遂げることになります。
暗殺者の一人、井口小十郎は神道無念流武術家だったそうで、かなりの剣の使い手だった模様。
そんな人に斬りつけられたらたまりませんよね~、対軒殿・・・無念じゃ。
久世広周は藩内の治水事業や教育を積極的に進め、領民から最も慕われた藩主といわれ、そして「どちらかというと開明的な開国派」だったそうで、杉山対軒も開明派だったという記述があります。
もし広周が長生きしていれば、関宿藩もこれほど混乱することなく、そして杉山対軒の運命もまた違ったものに・・・、
ってことになると子孫にも影響がでて、私はミュージカルスターになっているような別の人生を歩いていたかも? If・・・。
杉山対軒の事は「明治維新の頃に暗殺された先祖」ぐらいしか知らずにいましたが、
調べてみると藩主の久世広周はあの有名な井伊直弼にクビにされたり、井伊直弼の暗殺後は幕政をしきり、皇女和宮が降嫁した公武合体政策を推進したりと、大河ドラマの主役にはなれませんが、幕末の歴史に名を残したお殿様に仕えていたのだな~と、これは発見でした。
ちなみに、第二次世界大戦終結時の内閣総理大臣、鈴木貫太郎の父親も関宿藩家老の1人で、時期的に杉山対軒とは同僚だったようです。
歴史関係はけっこう好きなのですが、幕末、明治維新の頃は「尊皇 尊王 勤王 攘夷 佐幕」だのが入り交じり理解に苦しみ、今までど~も入り込めず。
しかし、ここ数年幕末、明治維新の時代劇を見る機会が増えたおかげで、だいぶ理解できるようになってきて、特に今やってるNHK大河ドラマ「八重の桜」、まさしくその時代のストーリーが展開されてます。前回(7月21日)はついに会津藩が降伏。
ちなみに関宿藩の佐幕派の一部は、上野戦争での敗北後会津藩に向かい、新政府軍と戦い続けたそうです。
「八重の桜」では「恭順」という言葉が良く出て来ます。
そして鳥羽・伏見の戦いでは恭順を進言した神保修理が切腹を命じられるなど、新政府に恭順か否か、苦渋の選択を迫られる武士の気持ちが非常に良く分かるようになり、ご先祖様の置かれた状況などが理解できるようになりました。
そうなるとついついドラマ仕立てで想像したりして、妄想が止まらない・・・。
杉山対軒役は「八重の桜」で八重のお兄さん役を演じる西島秀俊!
もちろん西島ファンの方々のために魅惑の上半身裸シーンを散りばめて~♡
↑ 知らない方のために説明すると ↓
「八重の桜」にて、西島秀俊が上半身を出す場面があり、その筋肉美にテレビの前のオナゴ達が釘付けになり、大きな話題となりました。
それ以来、また見せてくれるのではないかと期待し続けてるのは私だけではないでしょう。
普段見てる顔からは全く想像できない、あの意外性がすばらしかった!
「コリン・ファース プリンス・チャーミングの会」会長として、Mr.ダーシー湖の場面に匹敵する名場面であったと明言させて頂きます!!
ということで、万が一ドラマ化されたら、西島秀俊さん、よろしくお願い致しますね。
(2015年追記;西島さんがご結婚されて熱がすっかり冷めてしまいましたので、杉山対軒役は長谷川博巳さんにお願いしたいと思います(笑)。)
もしこのブログにまだお会いした事のない遠い親戚の方がたどり着いたら、(例えば杉山姓の方々とか)、ぜひメールでお知らせ下さいませ!
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家屋・庭に関する、世界を代表する日本人リノベーターに
なっていたのではないかと推察されます。
でも良かったですね。
日本の治水に励んだMulderさんの生まれ変わりと
今ここオランダでご一緒になれて(^^。
高校生ぐらいに戻れたら、そっちの方向で進路を考え直したいです。
ガーデニングなどもいいですが、虫が怖いのが難点。
うちのオランダ人、すごく日本人っぽい所があるので、前世は日本人ではないかと疑ってますが、でも毎日チーズとパンを食べて満足してる姿を見ると、やっぱりまぎれもないオランダ人・・・。
非表示コメントなので伏せ字を混ぜて・・。
OM さんのお父上の実家のS市は母の実家で、名字が私の母の旧姓と同じです!
もしかして私達親戚でしょうか?
ここの記事には書きませんでしたが、実は杉山対軒の別の娘がS市の母方の先祖にも嫁いでます。(川越は父方の先祖)
でも、その母方の杉山対軒の娘には子供がいますので(その子孫がうちとうちの親戚)、その娘とはまた違う娘がOM さんのお父上の実家に嫁いだという事でしょうか?
ちなみにS市の母の実家は開業医をしており、もしかしたらお父上はご存知でしょうか?
お名前のリンクの所をクリックしてみましたが、どこにもつながらなかったので、よろしければメールにてご連絡頂ければうれしいです!
gateroofshop@gmail.com
関宿藩ゆかりの方からコメントを頂きまして本当にうれしいです!
以前も家老職につかれていた方のご子孫から連絡を頂き、いろいろと興味深いお話を伺う事ができまして、ブログに書いて良かったと思っています。
また当ブログにたまに登場する「うちのオランダ人」の武道の先生も武田24将のご子孫だそうで、いろいろとつながっているものだなぁと思わずにいられません。
もしよろしかったら
gateroofshop@gmail.com
にメールして頂けたらと思います。
今後ともよろしくお願い致します!
関宿藩士の子孫で、家のことについて色々調べ始めている者です。遅まきながらこちらのブログ記事に気が付きました。^^;
関宿藩久世家については、今までなかなかまとまった歴史が書かれていなかったようですね。昨年ようやく『野田市史 資料編 近世1』という本が出ていろいろな史料が紹介されて、これからもう少し研究が進むのではないかと思っています。杉山家(市太夫)の名もかなり出ているようです。他にも、ご存知かもしれませんが、中老丹羽家の子孫の方の本にも杉山対軒の血筋などについて書かれていますね。
わが家の方はもう少し下の家柄なので、あまり載ってはいませんが、それでもだいぶ家系的にわかってきたこともあります。
同じ藩の方の子孫同士ということで、ついつい長く書いてしまいました。失礼しました。
関宿藩士の子孫の方とはうれしいです!
このブログを見つけて頂きありがとうございました!!
丹波家子孫の方も本を書いてらっしゃるんですね。
私も家の歴史などいろいろ興味がありますが、日本から遠いところに住んでいるのでなかなか難しいものがあります。
少々お聞きしたい事などがありますので、もし差し支えなければ、私のメールアドレスgateroofshop@gmail.com に喜多山さんのメールアドレスを送って頂けますでしょうか?
喜多山さんのブログ、これから拝見させて頂きます!
失礼いたしました。
こんにちは!
彰義隊に加わったという家老木村様のお名前は知っていました。
生きのびて沼津で生活されていたのですね〜、良かったです!
ところで、みわさんといえば、小説「いちまき」の主人公の方ですよね?!
実はまだ読んではいないのですが、このブログ記事がきっかけで知り合いになった関宿藩士のご子孫の方がその小説の事を教えてくださり、いつか読んでみたいと思っていました。
木村様と杉山対軒の間には激しい火花がバチバチと散っていたのではないかと思いますが、こうやって平和な時代に木村様のご子孫の方とコンタクトがとれ、とても嬉しく思います。
土本さまのお宅には何か杉山対軒に関する言い伝えはありますか?例えば、
「杉山の野郎、あいつだけは許せん」みたいな(笑)。もし何かありましたら、ぜひメールの方にてご連絡いただければと思います!(何もなくてもお気軽にメールを下さいませ!!)
gateroofshop@gmail.com
船橋随庵のご子孫の方でしょうか?
関宿藩関係にお詳しそうな文面ですが・・・。
もし何かありましたら、メールに送って頂いてもでも大丈夫です。
gateroofshop@gmail.com
コメント頂きありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします!